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【アラベスク】  第14章 kiss



第3節 晩餐会 [2]




 鏡に映る自分はまるで別人。
 化粧なんて、初めてだ。
 そこでハッと息を吸う。
 初めてじゃない。
 京都の夏、あの時も、美鶴はこんな風に複雑な気持ちで化けていく自分を眺めていた。そうして、どう見ても仮装だろうと思われるほど不思議に変身した美鶴をエスコートしてくれたのは、霞流慎二だった。

「そのように初心(うぶ)な表情をされると、殿方が放っておいてはくれない。あまりに執拗だと、私でも護りきることはできない」

 甘く、少し爽やかな芳香を漂わせながら、霞流慎二は優しく笑った。あの頃はそうだった。それが今は。
 ギュッと、膝の上で拳を握る。井芹は気づかないようだ。
 今頃霞流さんは、どこでどうしてるんだろう? あの怒号の中で、怪しく享楽的に揺れているのだろうか? 今夜はクリスマスイブだもん。行くところなんて、きっといくらでもあるに違いない。
 自分のような小娘を相手にしている暇など、霞流さんには無いんだ。
 井芹の触れた髪の毛から、香りが漂った。ここに来る前にシャワーを浴びてきたから、シャンプーの香りだろう。
 甘く優しい銀梅花の香り。
 なぜだろう。涙が滲む。
 あの頃から、きっと自分は霞流さんが好きだったのだ。桂川のほとりで迫られた時だって、ひょっとしたらあのままキスしてしまっても良いと、本当は思っていたのかもしれない。
 あれからまだ数ヶ月しか経っていないはずなのに、どうして、何がどうしてどうなったのか?
 あの頃の霞流さんは優しかった。なのに今は。

「好きだなんて戯言は、聞きたくはない」

 冷たく、見下すような侮蔑を帯びた涼しい瞳。

「私はそのジョーカーを、ハートのエースに変えてみせますっ!」

 自信なんて無い。勝算なんて無い。だってそうじゃん。こうして私は霞流さんの家に来てこんな格好してるのに、当の霞流さんは居ないんだから。
 居ない。ずっと遠く、手の届かない、私なんてお子様が入り込む隙もないような別世界で、大人の時間を楽しんでいる。
 手が届かない。
 涙が滲みそうになるのを必死に耐える。
 なんで泣くのよ。なんでいまさら。
 こんな想いはしたくないって、こんな惨めな思いはしたくないって、だからもう人なんて好きにはならないって決めたのに、なんでアンタはまた人なんて好きになっちゃったのよ。
 だが、どんなに自分を責めたところで、いまさら自分を誤魔化す事はできない。
 ホントに馬鹿なんだからっ!
 グッと涙を飲み込み、顔をあげた。気でも紛らわそうと視線を動かすと、視界の隅で誰かが笑った。雑誌の表紙だった。
【パーフェクトフレグランス men's100】
 複数の男性がニコニコとモデル笑いをしている。
 霞流さんのかな?
 手を伸ばそうとしたが届かなかった。その行動に井芹が気づく。
「あら、智論(ちさと)さんの忘れ物かな?」
 智論さん?
 首を捻ったところに後方でドアの開く音。
「終わりました?」
 ほんわりとした幸田の明るさが、今の美鶴には天使の声に聞こえた。



 案内された部屋は暖かく心地よく、並べられた料理は目にも鮮やかで見るからに美味しそう。美鶴はこの時になって、ようやく自分の空腹に気づいた。
 お願いだから、お腹鳴らないでよっ!
 履きなれないミュールにぎこちなくなる足取りを引きずりながらそっと腹を押さえる。その後ろから景気の良い声。
「あぁ お腹すいたぁ」
 見れば、井芹が料理を目の前に瞳をキラキラさせている。
「わおぉ! 豪勢だねぇ。さっすが天下の霞流家」
「そんな大袈裟な」
 困ったように笑う幸田の横で、木崎が恭しく身を曲げる。
「ではご婦人方、どうぞお席へ」
 言って、美鶴へ右手を伸ばす。
 うわぁ、そんな扱いしないでよ。恥かしいじゃん。場違いなんだからっ!
 そもそもこんな豪華なクリスマスなんて経験もした事ないんだよ。周囲が浮かれてるのを横目に布団に潜り込んで寒さ凌ぐのが毎年のパターンなんだから。コタツもエアコンも電気代がもったいないから極力使わなかった。うっ、なんだか虚しくなってくる。忘れよう、今は忘れた方がいい。
 心の中でブンブンと頭を振る。
「どうぞこちらへ」
「あぁ はい」
 おずおずと一歩踏み出したその背後から、とんでもなく控えめな音が響く。
「あ、あの」
 幸田よりもずっと歳上と見られる女性が顔だけを覗かせる。
「あの、お食事中申し訳ありませんが」
 言いながら視線を泳がせ、やがて木崎の上でピタリと止める。
「あの、木崎さん」
「なんですか、覗き込むような態度なぞ、お客様に失礼です」
「も、申し訳ありません」
 軽く叱咤されて慌ててヒョコリと身を部屋の中に滑り込ませる。だが、それでもそれ以上は入ってこずにモジモジと木崎を上目見る。
「なんですか?」
 見兼ねた木崎が、苛立ちを抑えながら口を開いた時だった。
「邪魔させてもらうぜぇ」
「相変わらず広いな」
「どこだよ、美鶴っ!」
 格調高い屋敷にはなんとも不似合いな叫び声が二つ。
 あれ、どこかで聞いた事のあるような声が。って、美鶴? わっ 私?
 ギョッと肩を竦めるのと同時、今度はなんとも無遠慮な音を立てて、ドアが盛大に開かれる。そうして飛び込んできた二人の姿に、美鶴はもう飛び上がりそうになった。
「さ、聡っ!」
「おっ 、美鶴ここに居たか… って、え?」
 ドアに手を掛けたまま一瞬硬直するのは金本聡。その後ろからゆったりと入ってきた山脇瑠駆真も、美鶴を認めるや目を丸くして息を吸った。
「美鶴?」
「瑠駆真。どうしてここに」
「どうしてって、そんな事よりも美鶴、その格好」
「格好って」
 言われるなり視線を落としたその先には、ヒラヒラと揺れる黒とピンクのレース。と、そこから伸びる自分の足。
「ひっ ひゃぁぁぁぁぁっ!」
 奇声をあげて慌てて裾を掴んではみるものの、それからどうすればいいのかわからない。と、スカートの裾を掴む手は、伸びる腕も肩までスッキリと露出している。当然だ。ノースリーブのスカートなのだから。
「わっ わっ わっ、えっと、ショール、ショール」
 慌てて両手で肩を抱きながら、首を捻って右往左往。
 胸の前で結ぶリボンが大きいので、慣れない人には食事の時にはかえって邪魔かもしれないからと脱いでおいた薄手のショール。椅子の背に丁寧に掛けられているのを引っつかむと、慌てて羽織った。
 自分が身を揺らすたびにレースも揺れる。スカートから伸びる足は隠しようもない。
 やだぁ ちょっと、どうしよう。
 もう恥ずかしくて恥ずかしくて、まともに二人を直視する事ができない。井芹の見事な手腕によって整えられた髪の毛の下で、耳まで真っ赤にしたまま為す術もなく立ち竦む美鶴。その姿に、聡はあんぐりと口を開いたまま瞬きした。
 おっ おっ おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!
 ワケの判らない高揚感が湧き上がる。
 これは何だ? 美鶴? 美鶴か? いや、そうじゃない。そうじゃなくって。
 混乱しているのか興奮しているのか。本人ですら判らない。
 やばい、やばいぞ。すっげーやばい。これは、か、か………
「可愛い」
 半分放心したようにポロリと零した聡の言葉。美鶴の羞恥は脳天にまで達する。
「ばっ 馬鹿かお前はっ! どこ見てるんだよっ」
「ど、どこって」
「変なトコロ見るなっ! スケベ」
「す、すけべぇ?」







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